『創価学会教学要綱』の主だった問題点を列記する。
【1】久遠実成の釈尊を、「永遠の仏」「根本仏」とする邪義
【2】日蓮大聖人を、終始「如来の使い」「上行菩薩」としか位置付けない邪義
【3】三宝の法宝である「人法一箇の本尊」を、単なる「南無妙法蓮華経」とする邪義
【4】三宝の僧法から、「日興上人」を排除し、「創価学会」とする邪義
【1】久遠実成の釈尊を、「永遠の仏」「根本仏」とする邪義
このような観点が『教学要綱』に表れているが故に、日蓮大聖人を仏宝としているのは、形だけのものであり、執筆者である創価大学の宮田幸一氏の身延教学への橋渡し的な著作が、この『教学要綱』であるとしか考えられない。次に宮田氏が創価学会の教学書を書けば、仏宝は、釈迦本仏となるのは間違いない。これで創価学会の三宝破壊の完成であり、創価学会は、その永遠に正しい軌道を逸脱する。現時点でも、この『教学要綱』は、歴代三代会長に違背する三宝破壊は、明白である。
創価学会は、口先だけの日蓮本仏であり、口先だけの師弟の教団でしかない。
「三宝を住持して護る者、転更に三宝を滅破せんこと、獅子身中の虫の自ら獅子を食うが如くならん、外道には非ざるなり」(守護国家論、69頁)
池田先生が、
「三宝を護る者がかえって三宝を破滅させるのである。それは百獣の王である師子が、自らの体に生じた虫によって食い破られるようなものである。仏法を破壊するのは、仏法と対立する外道ではない」
とおっしゃられている通りなのである。まさしく獅子身中の虫である原田会長や谷川壮年部長らが、池田先生の監修の名を勝手に語り、創価学会の永遠の軌道である三宝を破壊したのである。仏法上のこれ以上の大罪はない。
『教学要綱』は、
「永遠の仏――久遠実成の釈尊」(同書27頁)
とし、久成の釈尊を、
「根本の仏」(同書187頁)
であるとするが、久成の釈尊そのものは、法華経において「永遠の仏」としては説かれていない。法華経において、「有始有終の仏」として説かれている。
法華経寿量品では、「我本行菩薩道」と説かれ、「五百塵点劫」という過去において、始めて成道したのであるから、「無始」ではない。また、分別功徳品や神力品で「如来の滅後」と説かれるので、「無終」でもない。真の意味で「永遠」とは説かれていない。これを「文上」と言う。
『教学要綱』が、
「釈尊の本来の真実の境地(本地)は、無限の過去から無限の未来まで常に存在する『永遠の仏』である」(同書28頁)
とするのは、法華経の内容に完全に違背している。
明瞭な法華経の文上に教えを無視して、強引に釈迦を「永遠の仏」にしていることは、欺瞞であり、『教学要綱』が、創価学会を釈迦本仏へ、引き入れようとする意図を持っているのである。
『教学要綱』が釈迦に対して、「~された」などの尊敬表現を終始用いていることも、創価学会教学書としては、極めて異例なのである。
法華経において、永遠が指向され、「常住此説法」の仏身が説かれるのは、宇宙それ自体を表しており、この限定的な釈尊を超越した「久遠元初の仏」を指向しているからである。これが文上に対する文底であり、この無始無終で慈悲の活動を続ける宇宙と一体となった根源の仏を立てるのが、日蓮仏法なのである。
「南無妙法蓮華経」とは、宇宙それ自体であり、その「永遠の法」と一体なのが、「永遠の仏」なのである。それが、「南無妙法蓮華経如来」である。
池田先生の『法華経の智慧』では、以下のように語られる。
「寿量品では、永遠なる『常住此説法(常に此に住して法を説く)』の仏身を説く。文上の法華経では、五百塵点劫以来の『久遠実成の釈尊』のことだが、その指向しているのは無始無終の『久遠元初の仏』です。
釈尊が悟った『永遠の法』即『永遠の仏』は、あらゆる仏が悟った『永遠の大生命』であった。過去・現在・未来のあらゆる仏は、ことごとく釈尊と同じく『久遠元初の仏』を師として悟ったのです。
それが久遠元初の自受用身であり、南無妙法蓮華経如来です。戸田先生は言われた。
『日蓮大聖人の生命というもの、われわれの生命というものは、無始無終ということなのです。これを久遠元初といいます。始めもなければ、終わりもないのです。大宇宙それ自体が、大生命体なのです』と。
無始無終で慈悲の活動を続ける、その大生命体を『師』として、『人間・釈尊』は人間のまま仏となったのです。
そして、悟ったとたん、三世十方の諸仏は皆、この人法一箇の『永遠の仏』を師として仏になったのだとわかったのです」
歴史的に見ても、法華経は紀元一世紀ないしは二世紀頃に成立した初期大乗経典の一つであり、寿量品に説かれた久遠実成の釈迦仏は、実在の存在ではなく、法華経製作者が創作した観念上の存在に過ぎない。
阿弥陀如来や大日如来など、経典に説かれる諸仏と同じく、久遠実成の釈迦仏が三十二相を備える色相荘厳の仏であると説かれることも、それが架空のものであることを示している。実在の人間の姿・形ではないのである。
【2】日蓮大聖人を、終始「如来の使い」「上行菩薩」としか位置付けない邪義
『教学要綱』は、終始一貫して以下のように語られる。
「この二つの最大の難を乗り越える中で、大聖人は境涯の大転換を果たされた。(中略)それでは、大聖人は新たにどのような立場に立たれたのであろうか。それは、釈尊から滅後悪世の弘通を託された地涌の菩薩、なかんずくその筆頭である上行としての役割である」(同書43頁)
「大聖人自身が、竜の口の法難を契機に、釈尊から『南無妙法蓮華経』を付属された上行菩薩の使命に立ち、自らその『南無妙法蓮華経』を覚知したという究極的な自覚に到達された」(同書76頁)
「大聖人が、その『南無妙法蓮華経』を具体的に三大秘法として示し、末法の衆生の成仏の修行法を確立して、それを弘通したことは、地涌の菩薩の先頭に立つ上行菩薩としての使命を果たされたものであると解釈できる」(同書92頁)
「日蓮大聖人は(中略)自身が釈尊から滅後の『法華経』の流布を託された『如来の使い』であるという自覚を示されている」(同書93頁)
「大聖人は、法華経の行者という使命に立ち、釈尊から『法華経』の肝心である『南無妙法蓮華経』を託された地涌の菩薩であるという自覚を持って、末法の衆生の成仏を可能とする三大秘法を確立されたのである」(同書94頁)
身延教学とまったく同様に、日蓮大聖人を終始「如来の使い」「上行菩薩」としか位置付けておらず、そこには「発迹顕本」の内証の説明もない。あくまで釈迦を上位、日蓮を下位の関係の位置づけ、釈迦を根本視する態度なのである。『教学要綱』は、釈迦本仏とは明言しないが、この立場に留まる限り、実質的には「隠れ釈迦本仏論」なのである。『教学要綱』の言う「末法の本仏」は、日興門流の意味する「末法の本仏」とは言葉は同じでも、その内実が全く異なっている。
『教学要綱』が日蓮大聖人を指して、「仏と同じ権能を有して」(同書91頁)と述べているのは、仏ではない存在が仏と同じ権能を持つという意味になるので、日蓮を仏と認めず菩薩に留まるとする立場に立っていることを表明しているように読める記述になっている。このようなパラドックスがあるなら、身延教学同様に、「末法の本仏」と言わない方が、論として整合性がつくように書かれているのだ。
しかし、法華経文上においても、釈迦と上行ら地涌の関係は、このような単純な上下の師弟関係としては、説かれていない。『教学要綱』にその説明もない。
法華経従地涌出品には、「我、久遠よりこのかた、これらの衆を教化せり」と説かれ、仏の滅後に法華経を弘通する、その菩薩らの姿は、仏の徳相である三十二相を具え、あまりに偉大な姿なので、釈迦仏が、自分が教化してきた弟子であると説いても、弥勒菩薩はじめ、それは25歳の青年が百歳の老人を指して、我が子であるというようなもので、世の人々が到底信じがたいことであるとしている。
一般に菩薩とは、成仏を目指して修行している存在であり、しかも地涌の菩薩が釈迦から教化されて来た弟子であると説かれるのに、他方で釈迦が25歳の青年で、地涌の菩薩が百歳の老人と見られるとは何を意味しているのか。ここに、文上と文底の二重構造の現れがある。釈迦本仏論では、こういったところを、整合性を持って受け取ることが出来ない。『教学要綱』と同じく、解釈を端折るしかないのだ。法華経は天台大師が改めて指し示しているように、文底・奥底の含意を指し示す経典なのである。
天台が『法華文句』で地涌の菩薩について「皆これ古仏なり」と述べているように、地涌の菩薩は経典の文上では釈迦仏から教化されて来た菩薩として登場しているが、その実体は、釈迦仏をも超える久遠の仏であるということが、その含意である。
地涌の菩薩は娑婆世界の「下方」に住していたと説かれることについて、天台は「下方とは法性の淵底、玄宗の極地なり」と釈しているが、「法性の淵底、玄宗の極地」とは生命の根源である第九識に当たると解せられるので、地涌の菩薩が根源の妙法を所持する仏の境涯にあることを示している。
法華経神力品では「要を以ってこれを言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事は、みな此の経に於いて宣示顕説す」と説かれる。天台はこの文について「結要付属」とし、『法華文句』で、「総じて一経を結するに唯四のみ。その枢柄を撮って而してこれを授与す」と述べている。釈迦仏が上行菩薩に付属した法体は文上の法華経ではなく、法華経の枢柄、すなわち文上に表れていない奥底に秘められた根源の法であることを天台は示唆している。
属累品の「総付属」のような、無量の菩薩たちの頂きを撫でて、「今以って汝等に付属す」と言った具体的な付属の描写に対して、「結要付属」では、天台が「唯下方の発誓のみを見たり」といったように、言わば地涌の菩薩の決意発表だけで終わっている。つまり、この描写は、無始無終の法性の大地から現れた地涌の菩薩が、既に、その根源の法を体現し、所持している存在であり、それ故に、具体的な付属の言葉が必要でなかったことを表している。
法華経寿量品では、釈迦仏が成道したのは、今世ではなく五百塵点劫という長遠であるとし、「我本行菩薩道」という、それ以前に菩薩道を行じたことを因として、成仏したと説いた。歴史的には、釈迦が三十あるいは三十五歳頃に悟りを開いたのは出家以後に積み重ねてきた瞑想などの修行の結果だが、寿量品はその仏因・仏果は表面的なものに過ぎず、真実の成仏の因は、過去世における菩薩道の実践であったとする。
つまり、文上の釈迦仏を立てると言うことは、これと同じく歴劫修行がベースの成仏観となり、即身成仏の観点が不明瞭となる。つまり釈迦自身が、九界から仏界へ解脱する「厭離断九」の「従因至果」型成仏観であり、真実の十界互具・一念三千とは成り得ないのだ。さらに、法華経文上を修行すれば、架空世界の実報土へと解脱して、娑婆世界に帰れなくなってしまう。
法華経が即身成仏であり、真実の十界互具・一念三千・娑婆即寂光であるとするには、地涌の菩薩が体現する「仏界即九界」「従果向因」型の成仏観を主軸に、法華経を脱構築し、再構築する作業が絶対に不可欠になる。それが日蓮大聖人の文底である。
日蓮大聖人は、弥勒の問い掛けについて、「此の疑・第一の疑なるべし」、「仏・此の疑を晴させ給はずば一代の聖教は泡沫にどうじ一切衆生は疑網にかかるべし」(開目抄下・213頁)と仰せである。
この点において、極めて不親切・不明瞭なのが『教学要綱』なのである。
釈迦を上にし、上行を下にする『教学要綱』では、従来の学会教学における法難の際の「発迹顕本」がない。つまり、日蓮大聖人は久遠元初自受用身という根源仏の境地を表したという説明がないのである(創価学会教学部編『教学の基礎』『教学入門』等)。
『教学要綱』では「発迹顕本」や「久遠元初」「自受用身」の用語が一切ないのである。「人法一箇」の用語に至っては、SOKAnetにすらない。
「日蓮大聖人、自身を上行菩薩であると明言されてはない」(同書46頁)とウソを言って、竜の口の法難の時に「上行菩薩としての役割を果たす立場」(同書43頁)に立ったとするが、自覚もないのに、立宗宣言して南無妙法蓮華経を弘めて行ったことになる。仏法の原則上、付属もないに仏法を弘めて行くということは有り得ない。
「天台・妙楽・伝教等は、心には知り給えども、言に出し給うまではなし、胸の中にしてくらし給えり。それも道理なり。付属なきが故に」(1358頁)
つまり、立宗宣言された時には既に自身が上行の確信を持っていたと捉えなければならない。
「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」(1360頁)
同様の二重構造は、不軽菩薩にも表れている。不軽は経典の文上では、釈迦仏の成道前の修行時代の名前とされているが、実質は日蓮大聖人が「釈尊、我が因位の所行を引き載せて、末法の始めを勧励したもう」(1371頁)と、末法における弘通者を意味している。
法華経譬喩品で「無智の人の中にしてこの経を説くことなかれ」とあるように、釈迦は教えを受け入れる順縁の衆生を化導したのに対し、不軽は、杖木瓦石などの迫害を受けながら、その逆縁によって仏法を弘通するという、釈迦仏と対照的な存在になっている。
天台は、この対称性に着目して『法華文句』でこう述べている。
「本已に善有るは、釈迦、小をもってこれを将護し、本未だ善有らざるは、不軽、大をもってこれを強毒す」(14頁)
天台によれば、釈迦仏の化導は本から善根を持っている機根の高い衆生を救うために、各人の善根を擁護しながら、小法を説くものであるのに対し、不軽の化導は、何ら善根を持たない劣機の衆生を救済するために、人々の反発にかかわらず、大法を説いていくものであると言う。ここで、天台は、不軽が説く法が釈迦仏の説く法よりも、偉大な教法であるとしている。釈迦仏法の限界が露わになった末法にこそ、不軽菩薩が釈迦仏法の限界を超えた大法を弘通すると言うのである。不軽も地涌に包摂されるから、天台は小法を説く釈迦仏から大法を弘める地涌の菩薩への教主の交代、時代転換を説いていると解せられる。
「仏の滅後において三時有り。正像二千年には、なお下種の者有り。例せば、在世四十余年のごとし。機根を知らずんば、左右なく実教を与うべからず。今は既に末法に入って、在世の結縁の者は漸々に衰微して、権実の二機皆ことごとく尽きぬ。彼の不軽菩薩、末法に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり」(1027頁)
「今、末法に入りぬれば、余教も法華経もせんなし、ただ南無妙法蓮華経なるべし」(1546頁)
正法・像法時代は過去に下種を受けた機根の衆生であったが、末法は下種を受けていない衆生なので、不軽菩薩が出現して逆縁による化導をしなければならない時代であるとする。そして弘める法とは根源の妙法である。
教主交代という視点は神力品の結要付属の意義を考える上でも重要な鍵となる。
それは、『教学要綱』で語られるような、釈迦仏の使いとしての権限の付与、役割の委託などではなく、その実体は釈迦仏から上行菩薩という教主の交代を意味している。しかも、釈迦仏は、根源の妙法によって成仏させてもらった本果の仏だが、上行は成仏の本因となる根源の妙法を所持して、それをそのまま弘通する本因の仏である。
池田先生は、『法華経の智慧』で、こう語られている。
「神力品の『付属の儀式』は、端的に言うならば、『本果妙の教主』から『本因妙の教主』へのバトンタッチです。それは、燦然たる三十二相の『仏果』という理想像を中心とした仏法から、凡夫の『仏因』を中心とした仏法への大転換を意味する」
教主が交代するのであるから、末法に釈迦仏が出る幕はなく、釈迦仏は過去の仏となる。末法では妙法を弘通する上行菩薩が教主として出現するので、その時代には上行の化導に従うべきであるとの未来へのメッセージを示したのが神力品の趣旨である。
法華経は寿量品の文底において釈迦仏だけでなく、万人成仏の本因となる根源の妙法の存在を示し、不軽品で末法における実践の在り方を説いた。その上で、神力品で妙法を弘通する上行菩薩が末法に出現することを予言した。法華経それ自体は末法には救済力を喪失しているが、末法に妙法を弘通する教主の出現を予言することによって、その仏の化導を助けることを目的として作成されたと解することができる。
「寿量品の一品二半は、始めより終わりに至るまで、正しく滅後の衆生のためなり。滅後の中には、末法今時の日蓮等がためなり」(154頁)
「疑って云わく、多宝の証明、十方の助舌、地涌の涌出、これらは誰人のためぞや。(中略)経文に『いわんや滅度して後をや』『法をして久しく住せしむ』等云々。これらの経文をもってこれを案ずるに、ひとえに我らがためなり」(155頁)
池田先生は、この点に関してこう述べられている。
「二十八品は、三大秘法の仏法の序分として流通分として用いるのである」(旧版創価学会版法華経序文)
『教学要綱』において「日蓮大聖人は、インドで成立した大乗仏教の代表的な経典の一つである『法華経』を根本の経典と定めて、万人を救済する新しい修行法を確立された」(同書19頁)としているのは、まったくの誤りである。これは、明らかな釈迦本仏論である。
日蓮大聖人において法華経は自身の依拠する根本の経典ではない。日蓮大聖人は法華経によって妙法を覚知したのではなく、「自解仏乗」(903頁)であり、法華経は妙法を弘通するために用いるものに過ぎないのである。その視点に立って初めて、法華経と妙法と釈迦仏を宣揚した意味が、正しく理解することができる。
【3】三宝の法宝である「人法一箇の本尊」を、単なる「南無妙法蓮華経」とする邪義
日蓮大聖人の内奥の真意は、文字曼荼羅本尊の相猊に明確に示されている。門下に宛てた個々の手紙においてはそれぞれの門下の機根に配慮する必要があったが、本尊は教義の根幹であるから、個々の衆生の機根を超越した日蓮の真意が表されているのである。
文字曼荼羅本尊の中央に記されているのは「南無妙法蓮華経 日蓮(花押)であり、釈迦牟尼仏と多宝如来は、その左右に脇士の位置に記されている。日蓮大聖人が佐渡に向かう前日に記した最初の文字曼荼羅である楊枝本尊をはじめ、釈迦仏と多宝如来が記されていない日蓮真筆本尊も複数存在する。この事実が示すように釈迦仏は曼荼羅本尊においては省略されていることもある二義的な存在である。それに対して「南無妙法蓮華経 日蓮(花押)」が省略された文字曼荼羅は存在しない。
「此等の仏菩薩・大聖等、総じて序品列坐の二界八番の雑衆等、一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い、妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる。是を本尊とは申すなり」(日女午前御返事、1243頁)
中央の「南無妙法蓮華経 日蓮(花押)」が十界の衆生を本有の尊形ならしめる主体的中心である。すなわち「南無妙法蓮華経 日蓮(花押)」こそが日蓮の本尊の本質的要素であることが分かる。
池田先生はある時こう言われている。
「中央の『南無妙法蓮華経 日蓮』が本、他は迹」
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」(諸法実相抄、1358頁)
特に曼荼羅本尊の完成期である公安期の本尊において「南無妙法蓮華経 日蓮(花押)」が一体的に記されている相猊は、日蓮が南無妙法蓮華経と一体不二・人法一箇の根源仏であることをよく示している。
三宝から御本尊を排除する『教学要綱』は日蓮仏法の根本である曼荼羅本尊の相猊の意味について、全く論及していない。日蓮大聖人を釈迦仏の「使い」と位置付ける『教学要綱』の立場では釈迦仏を脇士とする曼荼羅本尊の相猊の意味を説明できないからである。騙されてはいけない。
日蓮大聖人は、自身について「教主釈尊より大事なる行者」(下山御消息、363頁)とおっしゃっている。なぜ自身が「教主釈尊より大事」となるのか。それは釈迦仏も示せなかった万人成仏の根源の法を弘通した教主であるからに他ならない。日蓮が釈迦仏の単なる「使い」や「代理者」であるならば「教主釈尊より大事」となる道理はない。ここに日蓮大聖人の内奥の本意が明らかに示されていると言える。
そして、本尊の図顕によって初めて題目・本尊・戒壇という三大秘法の仏法の全体が現れたのである。
また、「一大秘法」とは、『教学要綱』が言う単なる「南無妙法蓮華経」(同書193頁)ではなく、三大秘法を統合するものである「人法一箇の本尊」でなければならない。日寛上人は、「一大秘法とは即ち本門の本尊なり」(六巻抄)としており、御本尊を根本に三大秘法を意義付けていくのが当然なのである。それに対し、学会教学は身延化している。
あくまで御本尊こそが、日蓮大聖人にとっての「出世の本懐」(阿仏房御書、1733頁)なのである。その根本と永遠の軌道を、誤魔化しすり替えてはならない。
【4】三宝の僧法から、「日興上人」を排除し、「創価学会」とする邪義
全体として日興門流から離脱する志向が顕著な『教学要綱』だが、それは三宝の僧宝から日興上人を排除した点に端的に表れている。これまで創価学会は日興上人をもって僧宝とし、その上で僧宝を広い意味で論じた場合には、三宝を正しく伝持し弘めてきた和合僧である創価学会であるとして来た(『教学の基礎』『教学入門』他)。
それに対し『教学要綱』では、
「日蓮大聖人が亡くなられた後、大聖人の仏法を正しく継承・伝持したのは、日興上人である。そして、現代において日興上人を範とし、御書の仰せのままに、大聖人の御遺命たる世界広布を推進しているのが創価学会である。在家教団として世界に広宣流布を成し遂げてきた実証に鑑み、現代において『南無妙法蓮華経』を正しく伝持する教団である創価学会が、僧宝に当たる」(同書159頁)
として、あえて日興上人を僧宝と規定せず、創価学会を直に僧宝としている。なぜ日興上人を僧宝から外したのか、何の説明もなく、すり替えが行われている。それは、これまでの説明で考えれば、釈迦本仏を立てる身延化にとって、日興上人は大きな邪魔だからだとなる。
仏法全体の伝統として、仏・法・僧の三宝は、帰依の対象であるから、僧宝を創価学会とすると創価学会という教団そのものが帰依の対象となりかねない。それでは教団を本尊と同様の絶対の存在とし、教団自体を信仰の対象とする「教団信仰」「組織信仰」となるだろう。
その指向性は『教学要綱』が「創価学会仏」という言葉を強調している点にも表れている。この言葉はもともとは、将来の話として戸田先生が語ったものである。『教学要綱』は池田先生の次のような発言を紹介している。
「戸田先生がひとことお話しになりました。たとえば、こういう大勢の学会人がいても、将来、将来といっても、これはいつのことになるかわかりませんけども、経文が、また仏が出て説かれるときには『創価学会仏』という名前ででると」(同書194頁)
この発言に明らかなように、この言葉は将来には創価学会が仏として讃嘆されるような時が来る可能性があるという趣旨で戸田先生が語ったもので、現在の創価学会が既に仏そのものであるとするものではない。この戸田先生の元意を離れて創価学会仏という言葉だけを強調すると、今の創価学会が既に帰依の対象となる仏であるとして教団・組織の絶対性・無謬性を主張する論理に用いられる危険がある。
どのような教団であっても教団は所詮、人間の集団であるから、人間集団の判断や行動がどのような歴史的・社会的状況の元でも、絶対に正しく無謬であるなどということは、有り得ない。実際に創価学会の歴史においても、例えば「国立戒壇」などのように、従来用いてきた用語でも今後使用しないと公的に表明した例もある。絶対無謬の人間があり得ない以上、絶対無謬の人間集団も存在しない。その故に仮に教団自体を帰依の対象にするとしたならば、帰依の対象にしてはならないものを対象にするという意味で、日蓮正宗の「法主信仰」と同列の誤りを犯すことになるだろう。
宗門は、この「法主信仰」とともに、広布破壊・広布放棄の創価学会除名及び正本堂破壊を行ったのである。現在の創価学会は、「法戦」との呼びかけと共に、自民・公明を支援し、日本を破壊し庶民の生活を破壊し、遂に三宝を破壊したのである。創価学会は、この破壊を絶対化するつもりなのだろうかとなる。
2021年7月14日の聖教新聞では、原田会長は「支援活動」は「宗教運動の一環」と明言し、2016年11月11日の聖教新聞で「財務は」「御本仏への供養に通じ、これに勝る大善はありません」と明言している。これまで、聖教新聞誌上や大きな会合で、会の代表がこのような発言をすることはなかった。学会は、どのような社会状況や政策・政治状況であっても、票と金が欲しいのだと言っている。それが「法戦」であり、「立正安国」であると言い、さらには「財務」は信心に勝る「大善」であると言っているのである。このような状況下で、『教学要綱』は、「教団信仰」「組織信仰」を絶対化するのである。
「もし謗法ならば、亡国・堕獄疑いなし、およそ謗法とは、仏・謗僧なり。三宝一体なる故なり。これ涅槃経の文なり」(142頁)
「僧の恩をいわば、仏宝・法宝は必ず僧によって住す。譬えば、薪なかれば火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといえども、僧有って習い伝えずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝わるべからず」(938頁)
日蓮大聖人は全人類を救済する三大秘法の大仏法を確立したが、日興上人がいなければ、日蓮仏法は、大聖人の入滅と共に消滅していたことは、歴史的な事実なのである。それが故に、日興門流では、日興上人を唯一の僧宝としてきたのである。今日の創価学会があるのは、日興上人の存在故である。もしも日興上人がいなければ、創価学会も存在しない。
このような忘恩を行う『教学要綱』を取り下げもせず、教団の根本にすえて行くなら、その忘恩は歴代三代会長へと必ず向けられていく。既に、池田先生監修の名を勝手に使い、このような「師敵対」の邪義・邪説の本を出版しているのだ。
天魔が入り、衰亡しゆく教団が考え行うことは、理解し難いのであるが、直ぐにでも、この『教学要綱』は取り下げ、また会長以下の執行部の不見識を改め、日本破壊の自民・公明支援・法戦論を取り下げなければ、創価学会の未来はないと、断言するものである。今の状態は、戦後の庶民を守る社会的役割を終えたと言われても仕方なく、宗門と同じく、人の心が離れ消滅して行く教団でしかない。
涅槃経に「我、般涅槃して、七百歳の後、是の魔波旬、漸く当に我が正法を壊乱すべし」(651頁)とある。このままでは、涅槃経の予言の通り、大聖人(1222年-1282年)滅後七百年の後に、宗門に天魔が入って壊乱され、滅ぼされたのと同じように、日興上人(1246年-1333年)滅後、七百年の後に、創価学会も天魔に壊乱され、滅ぼされて行くだろう。その堕獄の時まで、あと十年である。
<参考文献リンク>
『「創価学会教学要綱」の考察: 仏教史の視点から』 須田晴夫
『法華経の智慧: 二十一世紀の宗教を語る』 池田大作